このページは、真慧さんの背景を、私なりに調べ掲載しました。

 

真慧(しんね)上人

浄光寺

高田本山

赤部村

 

「真慧の時代背景」

 

室町中期~後期、応仁、文明の乱が起こる戦乱の下克上の世でした。

 

室町後期の浄土真宗の僧。伊勢専修寺(津市一身田)第十代。

下野高田専修寺(栃木県真岡)九世定顕の長男。常陸の浄土宗迎雲寺等で顕密を学び、高田に帰った。

1460年頃から伊勢地方に布教の旅、三河、越前、加賀にも布教。

高田専修寺を継ぎ、伊勢一身田に無量寿院(専修寺)を建立し、高田派教団の勢力を拡大した。

法印・大僧都に任ぜられた。永正9年(1512)寂、79才。

 

 本願寺中興の祖といわれる蓮如とは親交があったが、加賀と越前で一向一揆が起こり、高田門徒は本願寺門徒と戦ったそうです。

 

 また、天台宗西教寺(比叡山近くの坂本)の中興の祖と言われる真盛とも親交が深く、宗派は違えども真慧の分骨した墓が西教寺にあります。

 

 真盛は津市一志町大仰の出生です。

 

 後に、織田信長による比叡山焼き討ちのとき、災禍は西教示にもおよび増したが、坂本城主になった明智光秀は信仰深く、この西教寺を復興しました。

  その西教寺には光秀の墓もあります。

 

西教寺の「宗祖真盛上人(1443~1495)」

 

宗祖円戒(えんかい)国師慈摂(じしょう)大師真盛 (しんせい)上人は、伊勢国一志郡小倭荘大仰の里(今の三重県津市一志町大字大仰)出生。紀貫之の一族で14歳で出家、19歳の時に比叡山に上り慶秀和尚に師事、20年間山に籠もられ天台の学問を究められました。当時は応仁・文明の乱が続く下克上の時代でしたが、上人は教化指導者として深く内省せられ、文明14年黒谷青龍寺に入り日課六万辺の称名念仏を修め、社会の秩序を正し世人に安心立命を与えるには、道義を強調する円戒と弥陀本願の念仏以外には無いことを悟られ、文明18年(1486)西教寺に入寺し朝廷・公家・武士・庶民へ持戒と念仏の布教を行われ、西教寺を戒称二門不断念仏の根本道場とされました。以来、その足跡は江州・越前・伊賀・伊勢を中心に広がり民衆の信仰を集めるところとなりました。

 室町時代の明応4年(1495)伊賀西蓮寺にて病に倒れ、無欲清浄専勤念仏を遺誡として、53歳で遷化されました。

 

 室町時代の明応2年(1493)坂本で徳政一揆が起こった時、その首謀者が真盛上人と誤解した山門の僧兵が西教寺に攻め入った。しかし境内には人影がなく、ただ鉦の音だけが本堂から聞こえてきた。それを聞いた僧兵が本堂に駆け込むと、そこには一匹の手白の猿が上人の身代わりとなって鉦をたたいていた。日吉山王の使者である猿までが上人の不断念仏の教化を受けて念仏を唱えていることに感じ入った僧兵はその場を立ち去ったという。

 

 元亀2年(1571)織田信長の比叡山焼き討ちの際、当寺も災禍を被りました。

その直後に築かれた坂本城の城主となったのが明智光秀でした。光秀は西教寺の檀徒となり、復興に大きく力を注ぎました。総門は坂本城城門を移築したもので、鐘楼堂の鐘は陣鐘です。天正10年にこの世を去った光秀は6年前に亡くなった内室熙子や一族の墓とともに祠られています。

 

 真盛上人はお念仏を人々に勧められ「称名念仏」「不断念仏」を掲げられたとのこと。当時ここ西教寺では世の人々はもちろん、野山の獣、鳥たちまでがお念仏に耽ったとさえ伝わっています。

 

 真慧上人と真盛上人、宗派は異なりといえども南無阿弥陀仏を絆として互いを兄弟の様に慕われたのでしょう。

 やがて真慧上人滅後、上人の遺言通り西教寺へと分骨され墓が建てられたのでした。

 

 

真慧年表 

 

1459年真慧上人、下野国高田を出て諸国を化導し、近江国坂本の妙林院に入る

 

1460年 伊勢国各地を教化する

 

1472年 『顕正流義鈔』を撰述し、蓮如上人に対し論争を挑む

 

1474年 一身田に建立の寺に対し、宇都宮正綱より「無量壽院」の名前を与えられる

 

この年加賀国に一向一揆が起こる。

 

1488年  加賀国に一向一揆が起こり、高田門徒は守護富樫政親に加勢して本願寺門徒と戦うが、政親は敗死し、高田門徒は加賀国から去る。

 

1506年 加賀の本願寺門徒が越前へ攻め入ったので、朝倉貞景と高田門徒はこれを迎え打って破る(朝倉始末記その他)。

 

1512年 10・22 示寂(79歳)。

 

 こんな文献もありました

 法鼎移転の大業を成就せられたのをたたえて中興上人と申し上げる。若きころ賀波山に隠れて研学、また古刹をたずねて諸宗の奥義を学ばれる。

 帰山後、聖人の遺跡をたずねて西国へ、しばらく江州坂本妙林院に滞在、27歳のとき伊勢国に化錫、一時県外に出られ、ついで一身田に入り、有縁の地として、本寺をここに移そうと思い無碍光流邪義釈明のため叡山に上り、求められて経論を講じ、謝礼として「阿弥陀如来像」を贈らる。名号や野袈裟を与え、教化大いに揚る。『顕正流義抄』などを著わし、門末を教導せらる

 

 さて、いろいろ調べているうちに、一身田という地名の由来は何なのかと知りたくなりました。

出てきた文献をコピペ編集してみました。

 

一身田由来

 

奈良・平安時代に、高位高官や政治上の功績があった者に対して「田」を与えるという「別勅賜田(べっちょくしでん)」の制度がありました。その身一代に限って与えられた田が「一身田」と呼ばれていました。これが地名の由来ではないかといわれています。

 

 では、この一身田は誰に与えられたのか。確定的な学説はないのですが、南北朝時代に書写された「神鳳鈔」という記録に、一身田の荘園の部分で「王殿一身田」という記述があることから、伊勢神宮に仕える皇女「斎王」ではないかと考えられています。

 

 一身田の専修寺について

 

 一身田が大きく変わったのは、1464年、真慧上人が東海北陸地方の布教活動の中心として、この地に無量寿院(専修寺の前身)を建立してからのことです。

 その後、栃木県の高田にあった高田専修寺が戦火にみまわれて、真慧上人が一身田に移って来たことで、一身田が高田教団の中心となりました。

 真慧上人が建立した専修寺は、天正8年(1580年)4月5日に炎上し、同16年に再建されました。

 

 ところが、正保2年(1645年)正月23日の夜、一身田村の大火により、再び焼失してしまいました。

 

 再建にあたっては様々な問題があって相当苦労したようです。しかし第十四世堯朝上人の夫人、高松院(藤堂高虎の長女)が、実兄である津藩主藤堂高次に働きかけ、津藩の絶大な援助を取りつける事に成功しました。津藩としては、慶長5年、富田信濃守信高が城主の時に城が包囲され、専修寺の仲裁で一命を取りとめた恩義があったようです。

浄光寺

 

お話し 浄光寺住職 良善の法難

 

美里村にて説法するにあたって、時の代官ら村人たちに欺かれ、風呂にて釜茹でにより殺された。

ただ一人反対したものが、良善を弔い墓守となり。

その当時、美里村では疫病がはやり、墓守の家だけは難を逃れた。

現在もその子孫が残る

 

 浄光寺11代の弟、号 涌蓮(ゆれん)は、京都嵯峨野に暮らし歌人となった、

12代の弟が涌蓮を慕い嵯峨野へ行き 号 達空(たっくう)と称した。

今も、詩仙堂の裏手の弘願寺に自然石の墓が二つ並ぶ。

 

由緒

 

 鎌倉時代の真言宗の中本山として、七堂伽藍を擁していたが、創建年代は不詳である。

一身田に高田本山専修寺が移転した時、多くの末寺と共に改宗して今日に至っている。

このときの開基誓裕上人は、源氏宇多天皇の後胤、佐々木近江守源高昌の嫡男である。

永享の乱(1439)によって、高昌の鎌倉方は敗退したので、祖のとき5歳の松千代は士卒と共に逃れ浄光寺に入って成人出家し誓裕と名乗り、高田本山の寺基移転に真慧上人を助け中興の偉業達成に尽力した。

浄光寺の本尊は、真慧上人より授与されたという記録がある。

 

 

 

 

 

赤部(あかぶ)

赤部(あかぶ)村由来

 

 今の久知野から七曲を越えたあたりから、ほんのり赤い灯が見えたのでその名称がついたといわれています。

畑から土器がでたこともあるというくらい古くからの土地

 

 室町時代の〔真慧さんの大飯〕の話しが伝えられている。

自家製赤部味噌製造の大樽が今も残っています。

 

土塀玉(どべだま)

 毎年1月15日に、津市の一身田のお七夜(親鸞聖人のお通夜)にあわせて、赤部でも、土塀玉報恩講を行う。

これは、(編集中)